隣の市になるのだが、犬山市に入鹿池という溜池がある
ここは江戸時代に入鹿村を沈めて作った人工の溜池だということを地元小学生達は教えられ、入鹿六人衆という方々が尽力されたと記憶される場所なのだ
犬山、小牧、丹羽郡には今でも入鹿用水なる用水が今でも稼働していて地元の農業用水として活用されております
入鹿池が1633年に完成して以来なので実に400年近くも使われているインフラになっている
途中災害などがあったりもしたが、メンテナンスし続け今でも現役で活躍する溜池として存在しているわけである
さて、今消費税を上げて行われようとしている公共事業に関して様々なご意見があろうかと思います
無駄なのではないか、今やらなくても良いのではないか、公開されているデータに信憑性がなく本当に必要かどうか判断できない などなど
なるほど難しい問題ですよね
戦後の復興期に大都市部や住宅地などではかなりのインフラ整備がされました
生活に必要なインフラ整備は日本のほとんどの住宅地で終わっているのかもしれません
ムリに新規に公共事業を起こしてインフラを整備したところで費用対効果が薄いというのも一理あるかと思うのです
「しかしそれがあることによってその土地に数百年と子孫が住むことができるとなればどうですか?」
というこの前提も崩れているんですよね
引越しが簡単にできる世の中にあって、その土地のインフラを借金こさえて作っても、そこの土地にいつまでも自分の残した家や土地に自分の子孫が住むわけではないのですから
そういう意味では日本全国ノマド化してしまって、その土地に住むという意味も変わり、インフラを整備するという意味も変わってしまっているのかもしれませんね
私の出自は長崎県南有馬です、所謂島原の乱があった原城付近です
ここはちょうど入鹿池ができる頃、島原の乱があって住人全員皆殺しになり、そこに移民としてやってきたのが我が先祖なわけです
400年弱住み続けて、我が両親が愛知県に引っ越して生活の居を構えてしまったので愛知県民となっておりますが、果たして入鹿六人衆はこういった私のような存在のために入鹿村を沈めたのでしょうか?
ここ100年の歴史の流れはとても激しく、きっとご先祖様も思わぬ形でそのインフラを使う人がいて驚くことでしょう
だれも100年先の未来なんてわからないんです、だからそれが必要な公共事業であるかどうかなんてこともわからないわけです
「エライ人にはそれがわからんのです!」
という言葉すら虚しく、エライ人もエラくない人もわからんのです
今の公共事業はまさに博打の要素も大きいのかと思います
適時、適当な規模で、素早くやらないと時代の変化についていけないというのに、実際にやろうとしてもスムーズに事が運ぶわけではなく、時間と費用ばかりかかって、いざやろうという段になったら必要なくなっていた
なんて公共事業は戦後いくつも散見されました
今一度考えてみてください
あなたはその街で一生暮らしますか?あなたの子供は、あなたの孫はその街で暮らしますか?
その考えのないままに地方分権などされても、だれのための政治をするのかさっぱり見えてこないと思うのです
住んでいる人の今の利益しか代表しない、そんな政治になるわけです
翻って今の現状を御覧ください、あなたの街の100年後が見えますか? 100年先を見て国造りがされてますか? それは政治家が悪いのですか?
ちょっとだけ思考のトレーニングだと思ってまどろっこしいことを書きましたが
「現代民主主義に置いて、国民のレベル以上に政治のレベルは上がらない。」
を常に申し上げております身として、思考遊びをするネタを提供させていただいた次第です
時にこんなことも考えたり話し合いをしてみてはいかがですか?