あまり行きたくなかった高校を卒業するにあたり、就職を決めねばならなかったのです
人生設計としては25歳までに社長となることを目標としていたのでサラリーマンになる気などサラサラなかったのですが、工業高校は就職率100%を目指しておりましたので無職のまま卒業させてくれる気配もなし
自衛隊には2年とか3年でやめられるコースがあると聞いて自衛官になろうと思ったのです
折しもバブル崩壊の予兆が見え隠れしていた時期、進路指導の先生も公務員にある程度優秀な人材を回さなければ先が危ないということで成績優良児である私を喜んで自衛隊に送り出してくださいました

自衛官にもいろいろございまして、本来私は長くいるつもりもございませんでしたので2年で退職金のいただける陸上自衛隊に入ろうと思っていたのですが、同級生が航空自衛隊に行くから一緒に行こうぜと誘われて、特に希望もなかったので航空自衛隊を希望して試験を受けました
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本来は3年で辞めるつもりでありましたが、ちょうど私の世代から途中退職ナシの自衛官の募集が始まっておりまして、面接で褒めちぎられていい気になってしまった私はその途中退職ナシの第一期曹候補士という形で自衛隊に入ることになります
ちなみにですが、私を航空自衛隊に誘った友人はいろいろとあったみたいでなぜか陸上自衛隊へと行ってしまいます

特に思い入れのない航空自衛隊でしたが、入ってみるととても魅力的でした
同期はみんなやる気の塊みたいな人達ばかりで、何事にも一生懸命に取り組んで泣いて笑って、本当の意味での青春がそこにありました
ただし飛行機が好きでもなんでもない私には常に営内で流れるトップガンのテーマだけは理解不能でしたけれど
自衛官時代の写真はたくさん残っております
なぜならば最初の3ヶ月半の教育課程では体力測定以外の賞はほとんど取っていたからです、ただし班での集合写真のため他の方にモザイクかけるのも変なのでアップはご容赦ください
自衛隊の最初の教育期間でも成績優良児のまま防府南基地を後にして、警戒管制官としての教育を受けるべく第五術科学校へ赴任、再び小牧の地へと戻ってまいりました
第五術科学校でも熱い青春が継続し、心から自衛隊が好きになっておりました
外泊できる時には同期5,6人で我が家に寝泊まりし朝までああでもないこうでもないと語り合ったものです
第五術科学校も成績優秀にて卒業、第五術科学校長褒章をいただいていざ東京都府中市にあります府中基地へと赴任するのです

初めての東京

まだバブルがはじけたと認められていない東京は18歳の私の目からみても狂っておりました
夜な夜な開催されているとウワサで聞く舞踏会、基地近くのセブン-イレブンの駐車場に入ってくるフェラーリ、新米自衛官の給料では部屋を借りることもできないくらいの家賃
子供の頃から見ていた笑っていいともを新宿アルタで観たり、今みたいに萌えばかりになる前の硬派な秋葉原でパソコンを購入したりしながら青春を謳歌する反面、この頃になりますと訓練ばかりで実務のない自衛隊の生活に物足りなさも感じておりました
とはいえレーダーを見てスクランブル対応をする部署なのでそれなりに実務のある部署であったわけですが、それでも何かぽっかり心に穴が空いたような感じを常に感じていたのです
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そんな中、突然沸いてきたPKO派遣のお話はとても魅力的でした、自衛隊に実務が発生することで訓練にも張りがでる、そういう期待を感じていたのです
結果その議論に失望し自衛官をやめることになります、詳細は過去の記事であります 小牧基地にて自衛官時代を思い出す をお読みください

2年弱の寄り道期間を経て、改めて政治を目指さねばと当初の目標に戻った私は25歳までに社長にならねばと友人と起業を考えます
とはいえ自衛隊しか社会人経験のない私と、同じく2年程度の社会人経験しかない友人では何をやって起業したらいいかがまったくわからなかったのです
結局何もできないまま時間だけが過ぎて、自衛官時代の貯金も使い切ってしまったので仕方なくファーストフード店にてアルバイトを始めます
アットホームないいお店だったので居心地がよく、1年ほどフリーターとして勤めさせていただきましたが、店長から
「うちの会社に就職するか?」
とお声掛けいただいた時に改めて人生を考えることになります
いい環境ではありましたがこのままここにいては25歳までに社長になれない、当時すでに21歳になっておりましたので残り4年
自分になにができるのかを自問自答しても何もないことを思い知らされるばかりです
店長の勧めによりアルバイトの時間の空き時間に就職活動を開始します、履歴書を書いていろいろと面接に行くのですがなかなか就職が決まりません、さすがに焦りまして人生計画を見直そうかとまで考えていた時のこと
前述の友人が就職した企業(今で言うベンチャー企業)でプログラムのわかる人間を探しているとのことで連絡があり、履歴書を持って面接に行きました
「3年後に独立します、その間は修業だと思って給料はいくらでも構いません、休みがなくても文句はありません」
当時社長が27歳だったと思います、ちょっとだけお兄さんの社長はあまり私のことを気に入ってはいなかったようですが、技術職の特権といいますか、仕事ができればいいや程度でとりあえず時給700円のアルバイトからでよければという条件付きで採用していただきました

有言実行、休みなく働きます
今で言えばブラック企業とか言われるのでしょうが、睡眠時間2時間くらいで休みなく働いておりました
時折体調を崩して寝込んだ時がお休みくらいで1日に20時間くらい会社にいるような状態です
大きな会社ではなかったのですべてが見渡せるのです
どうやって社長が仕事を取ってくるのか、どうやってお金を調達してくるのか、そしてどうやって儲けを出すのかに関しては天才的な社長でしたので20代前半ではできないような、何億円も儲かる携帯電話販売事業立ち上げなどなどとんでもない経験をたくさんさせていただきました
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気がつけば実務責任者みたいなことをしておりまして、本当にたくさんの経験を積ませていただいたわけです
そして3年が過ぎ、お約束なのでと会社を退職して自ら起業いたします

24歳3ヶ月、名古屋市北区にて有限会社テルベルテックを設立いたしました
25歳までに社長になったわけです
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しかしながら経営なんてわかりゃしませんし、私は修行していた時の社長ほど嗅覚があるわけでも度胸があるわけでもありません
お店を従業員に任せながら趣味のラジコンに興じておりました
起業して2年ほどは業界の好景気の中で漠然と儲かっておりましたが、3年目以降は売上半減のまさに経営危機です
しかしながらどうしていいのかわからないのです、なにせ経営なんてわかりゃしないのですから
人生で初めてリストラをしました、本来であれば経営能力のない社長である自分が悪いのにもかかわらず、一生懸命に働いてくれている従業員さんにやめてもらうだなんて変な話だなと思いながらも自分が逃げ出すわけにもいかず
「後1ヶ月しか給料を払えないから今のうちに次の働き先を探してください」
という一言を言うまでに悩んで寝れなくて3日かかってようやく口にできました、そしてやっと口に出せた日の夜は酒を飲みながら泣きました
それからしばらくは放心状態です
お店をやっていたので毎日出勤して時間通りにお店をあけて、数件来るお客様の対応をして、そして定時にお店を閉めるだけの日々です
たっぷりある時間の中で、ずっと後悔ばかりをしておりました
そのせいでしょうか、やっぱりこの時期の写真がまったくございません

やがて時代はITバブルを迎えます
個人で使っていたノートパソコンが古くなったのでそれをサーバーにしてみよう
ありあまる時間の中でやっとこさ再起に向けての重い腰を上げたわけです
パソコンがある、回線もある、だったらプログラムを作ればいいじゃないか
LinuxというOSを初めてインストールしてノートパソコンをサーバーに仕上げて、Perlという言語とPostgreSQLというデータベースを使って次々にプログラムを作って行きます
いくつかのシステムが売れ、お店の営業時間後はインターネットとはなんぞやとか技術職育成のための講師として飛び回り、気がつけばそれなりに忙しくする日々が続いていたのですがそれもそこまで、ITバブルもいつまでもは続かずにピタッと仕事が止まってしまうのです

30歳を迎える頃、私自身が決断をしなければならないことがありました
起業するにあたって30歳になった時、儲かっていなければ会社をたたむと宣言していたのです
しかしながら自分自身はもう何も考えられない状態のまま思考停止状態となってしまいました
当時不景気対策として行政がいろいろと施策を打ってはくれておりましたが、残念がなが個人規模のIT屋が受けられる仕事もなく、逆に何か提案してくれと言われても名古屋市役所規模の仕事など創出できるわけもなく、お店がありましたので市役所にも早々顔を出しているわけにもいかないのです
結果として行政の不景気対策にはまったく乗れぬまま、かといって自ら廃業を決断し実行することもできないままの日々を繰り返しておりましたが、友人や先輩方がほぼ実力行使に近い形で私をこの負のスパイラルから抜けださせてくださいました
面接の日取りを決めていただき、身なりを整えていただいて送り出していただきました
人間苦しい時というのは手を差し伸べるだけでなく背中を押してくれないと動けないものだと実感いたしました
そして採用がきまり、私は契約社員として最大手の通信会社で働くことになります
しばらくして会社を人手に譲りました、たまたま名古屋の企業が欲しい方がいらっしゃったのでそのままお譲りしたのです

楽しい思い出も、辛い思い出も、たくさんの経験をさせていただいた20代でした
今こうして生きていられるのも手を差し伸べ背中を押していただきました友人や先輩方のお陰であるとつくづく思うと共に、いつかこの受けたご恩を何かしらの形でお返ししなければと心に刻んだ思い出でもあります