紆余曲折の20代を経て、人様に助けられた命とばかりに30代が始まるわけですが
日本最大手の通信会社で派遣社員をやることになりまして、派遣社員といいましてもスーパーバイザーという肩書ですのでそれなりに給料はいいわけです
光ファイバーの戸建て営業部署でありましたが成績はダントツトップでしたので仕事も忙しく毎日営業さんやお客様とのやりとりをしながら1年ほど勤めさせていただきました
ぼちぼち勤めておりますとかつてのお客様などからいろいろとシステム開発のお話をいただくことがありまして
さすがに激務の中で開発業務をすることはできないだろうと後輩の会社にお願いしてみようと思ったのですが、逆にうちの会社にきてやって欲しいとお願いされてしまいまして
人間とは懲りないものですね
結局のところ散々会社経営に苦労して救われた身でありながら1年で会社経営に戻ってしまうわけです
企業さんのサーバーやネットワーク構築を当初の業務としておりました
責任は重大ですが単価も高く、またメンテナンス費用もいただけるので売上もよく利益率も(なにもなければ)よいのでそれほど大規模に展開しなくてもそれなりの利益を計上することができておりました
しかしながら時代の流れは中国に生産拠点を移動させる企業が多い時代であります、その余波を受け、受注先を工場などではなく中小企業に、さらにはコンシュマー向けに何か企画は打てないかと試行錯誤するわけです
この頃ちょうど経営者の異業種交流団体に参加させていただくことになりました、また会社のある愛知1区に小泉郵政選挙で当選した同じ年齢の衆議院議員をご紹介いただいたこともあり政治活動にも参加することになります
まさに出会いの時期と言えるのかもしれません
平日昼間は働き、夜は経営者の会で飲みまくり、土日は後援会青年部として街頭活動をするという生活の始まりです
ロードレーサーを購入して自転車レースに参加するようになったのもこの頃です
この頃の写真は何枚か残っているのですが、自転車に乗っているかお酒飲んで歌っているかの写真なのでカットさせてください
IT技術者35歳定年説なるものが存在しております
私自身も企画屋としての限界を感じつつあったのでコンシュマー向けに一発の企画を提案します
最近でこそアニメ作品を定期的に楽しませていただいておりますが、実はこの時の企画のためにいろいろと映像コンテンツを研究うしている時にアニメ作品もその対象になっていたのです
様々な人気作品を視聴いたしましたが、やはり萌え系と呼ばれている作品はこの当時も今も苦手です
とても評判がよかった企画なのですが、結局はいろいろございまして商品化に漕ぎ着けられず、この時点で私自身も製作部署から東京支店長に異動となったこともあり経営者として引き際を考えるようになります
15歳の頃の作文ではありませんが、30代後半からは政治活動に注力したいと思っておりましたのでその旨社長に伝え、4年の区切りを持ちまして36歳で退職させていただくこととなりました
会社をやめてすぐに名古屋市港区で行われてました市議補欠選挙、名古屋市内は河村旋風吹き荒れる中での戦いとなりまして結果としては負けてしまいました
その補選が終わって片付けが終わると麻生総理(当時)が解散を宣言しいよいよ夏の選挙が始まることとなりました
実はその直前、7月に入ってから公設第二秘書という役職をいただいておりました、前任者が退職したためその跡を引き継ぐ形となりましたが事実上3週間程度で解散となったため短い公設第二秘書経験でした
解散から選挙終了まで40日間、夏休みの間ずっと準備から含めて選挙をしていたことになります
結果は残念ながら敗戦、まじめにコツコツやってきたことの評価はあったとは思うのですが、それでもはやり政権交代という大きな流れの中では飲み込まれ流されてしまったようです
私個人的にも会社をやめてからずっと選挙の中に身をおいてきたわけですが、2つの選挙の結果と大きなうねりのような流れを理解しようと努力しようとした矢先、春まで所属しておりました会社がなくなったとの連絡がありまして、とりあえず自分のわかる範囲でお客様のサーバー移転をやらなければならない事態となりまして
気がつけば36歳にして何もかもを失った状態で冬を迎えねばならないという厳しい状態に陥っていたわけです
個人事業主DGR Works代表
経営者として区切りをつけたはずでしたが所属していた会社がなくなってしまったので当時の私担当のお客様にはご迷惑はお掛けできないとサーバーの移転作業をさせていただき、その後のメンテナンスなども含めて気がつけば個人事業主として活動をしておりましたので起業するぞとか独立するぞと意気込んで始めたわけではありません
いくらかの売上はありましたが十分とも言えず、とはいえこの先人生どうするかも不透明な中でやはり政治活動を中心に据えたいと思っておりましたのでどこかに就職をして時間を拘束されるわけにもいかず、結局はズルズルと個人事業主を続けることとなってしまっておりました
その政治活動の方も当時の候補者が突然離党し他の党へと移籍してしまったことにより宙ぶらりんになってしまいました
そんな時にお声を掛けていただきましたのが北区でお世話になっておりました松川こうめい県会議員です
「まだ政治に志があるならうちに来い」
と言われまして、第二の書生生活が始まるわけです
このブログがちょうどその頃から始まっております
河村旋風がそのうち減税旋風と呼ばれるようになりました、しかし実情は議員報酬が高すぎるという感情の方が多かったように思いますので減俸旋風というのが正しい表現だったのかもしれません
友人や知人も結構な数が減税日本に同調していく中で何か釈然としない状況が続くのです
きっとその前の政権交代選挙の時も感じておりましたが、議員なんてだれがやっても同じという空気が根底にあったように思います
その大きなうねりの中で、しかしながら自分自身の計画も立てねばならないのです
春の統一地方選(現在からみて4年前の2011年のです)が終わったら秋に行われる小牧市議会議員選挙に挑戦してみよう
短期目標を立てておりましたが、減税旋風が吹き荒れる中で名古屋市議会のリコール成立、前倒しされた市議会選中に起こった東日本大震災、その震災でまだテレビ放送すらまだまともな状況ではない時期に行われた春の統一地方選と続きその選挙で親分が僅差での敗戦
この辺りはこのブログの過去記事に当時いろいろと自分を鼓舞しながら書いていた文章が残っておりますが、特にあれほどの災害が起こっていたにもかかわらず何もすることのできなかった自分自身への不甲斐なさに腹が立っていたように思います
立て続けに行われた選挙の後ということと、これらを受け入れるという作業をしなければなりませんでしたが、すっかり心が折れておりまして自分自身糸の切れた凧状態になってしまい、小牧市議会議員(しつこいようですが4年前のです)に挑戦する気力も失いこのまま仕事に専念するかと思った矢先に新たなる出会いが待っておりました
都市と山村を結ぶ交流事業を展開することになります
ちょうど夏が終わって自分自身が商売に身を入れようとしていた時のことです
お酒を飲むかもしれないからと先輩の運転手をして訪れたのが小牧から車で2時間のところにある長野県下伊那郡泰阜村というところでした
名駅前にあるビアガーデンに産直組合の農家さんが野菜を販売していたようで、その売上の報告などをする会議に出席するとのことでした
会議も終わりさて宴会となったところでもう泊まっていけばいいからと運転手である私までお酒を飲まされてしまいまして、酔ったところに村長が登場されまして名古屋にアンテナショップを作るんだとおっしゃられまして、ちょうど名古屋からIT屋さんが来てるからといろいろと盛り上がりまして
気がつけば翌朝、産直組合さんにお伺いしたり村役場にお伺いしたりしながら気が付いてしまったのですが、酔っ払った勢いで野菜の売れる仕組みをご提案しますみたいなことを言っていたようなのです
結果といたしましては名駅にオープンするメイヨン酒場とのコラボレーションが決まるわけですが、それまでの半年間ほどの間、どれだけの企画書を書いたことやら
様々なキャッチコピーを考えました、信号もないコンビニもない何もない村泰阜村、第二の故郷泰阜村、などなどは採用されていたはずです
この泰阜村事業の中でARという技術を使ったポスターを展開いたしました
アプリを起動した状態でポスターを映すと泰阜村の光景が360度パノラマでみることができるというポスターなのです
今でこそAR名刺を作ってアプリを起動して読み込ませるとホームページに飛んだり動画が流れたりというのはそれなりにありますが、当時はまだまだ実例は少なく、しかし山村の自治体がこういった最先端技術を使って都市部に売り込みをかけるという事例を作らせていただいたわけです
当然技術を披露して終わりだったわけではないので1年目の成功を踏まえて2年目の展開をいろいろご提案していくわけです
人口1800人ちょっとの村でしたので観光客が欲しいのか、それともIターン、Uターン者を増やしたいのか、様々なヒアリングを行っていくのですが、そもそもが泊まる場所も食事をする場所もない村であります、観光客が来られても応対できないので困ると言われてしまうのです
だったら観光客に泊まってもらう施設であるだとか買い物や食事のできる施設を作ればどうかとご提案をするのです、ちょうど手頃の廃校がございましてそこを利用させていただけないかとか各種保養所施設の誘致はどうかとかいろいろ調べてはご提案をするのですが、結局施設を作るとそこをお守りしなければならないけれど、そのお守りをする人手がないということでどれも却下となるわけです
そうなのです、地方の抱える問題がそこにはあったわけです
都会に住む我々はすっかり忘れてしまっているのですが、商売の基本は人、金、物です
お金は都会から引っ張ってこれますし物も物流がよくなったので本土であればそれほど困りませんが人はどうしても困るのです
泰阜村の昼間の人口構成は老人と中学生以下の子供ばかりです、現役世代はお隣の飯田市などに働きに行っていないわけです
村に施設を作ってもそこで働く人を手配するのが困るのです、実際に聞いた施設などでも人を雇用してみたものの十分な給料ではないので仕事のない時間などは飯田市でアルバイトをするわけですが、結果としてアルバイトに集中した方が給料がよかったり正社員などの話が来たりして定着していかないわけです
どうしても泰阜村に観光客を呼べるような施設をつくろうとすれば人、金、物をパッケージングして愛知県から送り込んでいかねばならないのですが、それが本当に地元が望んでいるのかといえばそうでもありません
我々都市部の人間としては珍しい風景だったとしても村の人達にしてみたら住んでいる場所なのですから、あまり大挙して人が押しかけて騒がしくされるのを望んでいるようにも思えないのです
しかしながらこのままでは打つ手がなくなってしまうので何かしらの産業は起こさねばならないわけです、いつまでも何もない村のままでは本当に村自身がなくなってしまうのではないかという危機感を私は持っていたのです
元々メイヨン酒場自体が2年間の限定店舗であったため、1年目で名古屋市内で泰阜村の知名度を上げて2年目で名古屋から泰阜村へ観光ルートを作って交流事業にしていきたかったのですが、結局数々のご提案虚しく1年目の延長という方針が決まってしまうのです
決めたのは村の政治ですから文句は言えません、村民も望んでいない、村の財界も望んでいないことを外からきた業者がゴリ押しできるはずもありません
私が泰阜村の村民でないのでいくら説得しようとしても所詮はお金をもらって動くだけの業者なのです、そして村のことは村民で決めるべき自治なのです
そこに地方政治の根本を見た気がしました
ああ、自分はここで何をやっているのだろう、小牧に帰ろう
親分である松川こうめい先生にいつも言われていたことでした
「政治家をやるなら地元で地方議員やりなさい、国の成り立ちは地方の集合体なのだからしっかりと地に足をつけなさい」
その意味を改めて痛感した事業であったのだと思います
気がつけば40歳の声が聞こえておりました、結婚もして子供も生まれておりました
自分は自分の地元をしっかりと発展させていかねばならないのだと改めて実感した事業でありましたし、ここで再び私の心に火が灯された事業でもありました